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『好きなものを布教する技術』

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自分の好きなものを広めるにはどうしたらいいのか。

その秘訣を歴史的な伝道師から学ぶ。

オタクに求められる技術

オタクならば、自分の好きなものを他者に薦めることができなくてはならない。『布教』のスキルこそ、オタクにとって必須の技術である。

Construction completion

他人がどうかは関係ない、自分が好きならばそれでいいと考える人もいるだろう。むしろ「それを好きであること」が自分のアイデンティティになっているとしたら、人気が出ないほうが望ましいのかもしれない。

しかしそれでは持続性が無い。対象が商業作品であれ同人作品であれ、広まらなければ生き残れない。必要とされる利潤や称賛は、多くの消費者がいて確保できるものなのだ。そのため末永く続いて欲しいと思うなら、消費するだけでは不十分である。布教することで、ファンの数を増やすべきなのだ。

とはいえ注意が必要だ。布教はうまくやらないとファンよりもアンチを多く作ることになる。これでは何のために布教しているのか分からない。正しい布教のやり方を学ぶ必要がある。

布教の達人

布教はどのようにやればいいのか。ここは先人の行動を参考にするのが一番である。今回は布教の達人ということで、この人の行動から学ぶことにする。

paul's portrait
【パウロの肖像※引用:ウィキメディア・コモンズ

キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人でもある、聖人パウロだ。

彼の経歴を調べるとなかなか面白い。彼は元々サウロという名前のユダヤ教徒であり、アンチ・キリスト教徒であった。(当時はまだ「キリスト教」と言うよりは「ナザレ派」と言うべきだが、分かりやすくここではキリスト教で統一する) 熱心なファリサイ派ユダヤ教徒であるサウロにとって、キリスト教徒は誤った教義を信じている愚か者どもである。サウロは積極的にキリスト教徒を迫害していた。

それがある時を境に方針を180度変える。サウロは名をパウロと改め、キリスト教徒となったのだ。この方針転換について聖書では「サウロの回心」と言われる。

conversion of saul
【サウロの回心※引用:ウィキメディア・コモンズ

ちなみに「目からウロコ」という言葉は、このエピソードに由来したものである。

こうして熱心なキリスト教徒になったパウロだが、面白いのは教祖であるイエスの扱いである。普通ならイエスの信者となったからには、イエスがどのような人だったか興味を持つはずだ。イエス・キリストってどんな人?生い立ちは?家族構成や恋人も、というように。

ところがパウロは生前のイエスにほとんど関心を持たない。パウロにとって重要なのは3つだけ。磔刑復活、そして自分に対して語りかけてきたということ。

crucifixion of christ
【キリストの磔刑※引用:ウィキメディア・コモンズ

このことを深夜アニメで例えてみたらどうなるか。元々ネットの評判だけでアンチ活動をしていたオタクが、ふとした拍子にハマってしまう。ただし彼が好きなのは、11話の終盤から最終話にかけての展開だけ。というかそれ以前のストーリーはまともに知らない。ひどいニワカだ。

とてもじゃないが、彼が布教活動して上手くいくとは思えない。しかし現実は違う。現在キリスト教が世界宗教となっているのはパウロのおかげと言っても過言ではない。一体何が起きたのか。

ガチ勢ではなく一般層を狙う

布教の対象としてパウロが選んだのは、ユダヤ人よりも異邦人であった。狙うべきなのはオタクではなく一般人なのである。

当時のキリスト教は、主にユダヤ人に対して布教が行われていた。ユダヤ教の一流派という位置づけであるのだから当然である。ギリシャ語を話すユダヤ人であるヘレニストと呼ばれる人々は、付き合いの中で異邦人へ布教することもあったが、これはあくまでも例外だ。カエサルのものはカエサルに、オタクのものはオタクに、というのは今も昔も変わらない。

対してパウロは逆だった。彼はむしろ異邦人をメインターゲットとしたのである。

Paul in Athens
【アテネでのパウロ※引用:ウィキメディア・コモンズ

パウロもギリシャ語を話せるヘレニストである。当時のギリシャ語は共通語だった。現代における英語のようなものだと思ってもらいたい。だからパウロは異邦人への布教が可能だったのである。

これは布教の対象を大きく増やすことが出来るのだ。当然ながらローマ帝国にはユダヤ人よりも非ユダヤ人の方がはるかに多い。その上彼ら異邦人たちは、旧来のユダヤ的価値観に染まっておらず、パウロの斬新な教義を、余計な先入観を持たずに聞いてくれるのだ。頭が空っぽの方が詰め込めるとは、まさに至言である。

しかし、一般人に勧めるというのは1つ問題がある。それは素養が無いということだ。だからいきなり多くのことを要求しても無理がある。そこでパウロはハードルを一気に下げた。

ハードルを下げる

あなたにもこんな経験はないだろうか。新しく趣味を始めようと経験者に相談したら、「まずは最低これだけ用意しろ」と長いリストを渡された。あるいは長期シリーズの最新作に興味を持ったら、初代から順に見ろと言われてうんざりした。このようなハードルが現れて挫けた経験である。かつてキリスト教徒になるということは、これ以上にハードルの高いことだった。

すでに述べたように、キリスト教は元々ユダヤ教の一流派である。そしてユダヤ教には守らねばならない律法が存在する。その数は613とされるのが一般的だ。どれか1つでも破ってはいけない。

単純に数が多いだけでも、部外者からしたら厳しいが、内容もあいまってハードルの高さをさらに上げていた。中でも「割礼」はその最たるものだった。

circumcision of jesus
【イエスの割礼※引用:ウィキメディア・コモンズ

ダビデがゴリアテを指して「あの無割礼のペリシテ人は」と言うほどに、ユダヤ人にとって割礼は重要な要素である。だからキリスト教徒になるのであれば割礼すべきというのは当然の流れだった。仲間になりたければ通過儀礼を行え、と。

しかしこれは部外者にとって理解も許容もできる話ではない。このままでは、キリスト教が異邦人の間に広がることは難しい。

そこでパウロは布教する際に割礼を求めなかった。それどころか他の律法を遵守する必要すら無いとまで言った。律法を遵守することが重要なのではない、神とイエスを信仰することが重要なのだとしたのだ。イエスが十字架にはりつけられたことで、もう律法に縛られる必要は無いのだ。

これにより異邦人がキリスト教徒になるハードルはグッと下がった。細かな規則を守る必要は無く、ただ信仰先を変えればいいだけなのだから。だから異邦人の間にもキリスト教が広まり始める。布教を行おうとするならば、これくらい思い切ってハードルを下げるべきだ。

だがこの行為は諸刃の剣である。通過儀礼を無視するというのは、古参メンバーからは快く思われないことが多い。パウロの場合もそうだった。このことがパウロに手紙を書かせることになる。

公開してまとめる

キリスト教にうとい人間にとって、新約聖書はイエスの物語というイメージが強い。だが実際は収録されている27の文書の内、イエスの生涯について書かれた福音書は4つだけ。それよりも書簡の方が多く、特にパウロが書いたとされる書簡は13と、全体の約半分を占めている。

しかもパウロの書簡は新約聖書の中でも、最も古い文書であるのだ。数からも順序からも、パウロの書簡こそが新約聖書の中心と言えるかもしれない。

Saint Paul Writing letter
【手紙を書くパウロ※引用:ウィキメディア・コモンズ

パウロが手紙をこれほどまでに書いたのは、宗教性の違いによって他のキリスト教徒と揉めたからである。自分の意見の正しさを各地の教会に説明するため、あれほど必死になって書いたのだ。そしてパウロはただ手紙を書いたのではない。

パウロの手紙は個人宛ではなく、宛先である教会の信徒みんなで読んでもらうように書かれている。元より、公開されることが前提の手紙なのだ。さらにパウロは手紙の複製を用意し、エフェソ教会で保管するように手配していた。

だからこそパウロが処刑され、さらにエルサレムが陥落した後も、パウロの手紙は読まれ続けた。パウロがいなくなった後でさえ、パウロの布教活動は続いたのである。そしてついにはローマの国教にまでなった。

このことから言えることは1つ。布教のための言葉は公開してまとめろということだ。閉じた環境で特定の相手にだけ語りかけるのでは、それ以上広がらない。今パウロを真似るなら、Twitterで自分の意見を語り、それを[Togetter]でまとめると言ったところだろうか。情報が自然と広がるように行動するのだ。

おわりに

これであなたも布教を成功させることができるだろう。好きなものがあるのなら、それを積極的に広めるべきだ。

パウロは布教に人生を捧げ、3度の長い旅に出たが、今はそこまでしなくても良いのが幸いである。家から一歩も出ること無しに、パウロより広範囲に自分の意見を伝えることができる。しかも一瞬の内に。ハードルは限りなく低くなっている。あとは実践あるのみだ。

骨しゃぶり

週末ブロガー。本と何かを結びつけるようなブログを書いている。くっつくのは深夜アニメが多い。

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